チェスゲーム 

 ロストールのスラムの酒場の奥には、個室めいた小さな部屋がある。
 雑多な物がところせましと積みあげられている物置のようなその部屋の片隅に、ひっそりとチェスボードが立てかけられているのを見つけて、エルフィンはたずねた。

「親父、このチェス盤は?」
「あんた、チェスなんて知ってるのか。時々顔を見せる双子の姉妹のもんだ。たまに向かい合って差してるぜ」

 ノーブル伯という称号を得るまで、エルフィンはチェスを知らなかった。
『貴族のたしなみの一つだ。覚えておけ』
 そう言ってエルフィンに手ほどきをしたのは、エルフィンをノーブル伯にしたてあげた義兄だった。
 ルールはそれほど難しくなく、一つ一つの駒の動きはいたって単純だが、それらが組み合わされると幾万通りもの手が生まれる。いかに相手の手を読み、攻撃をしかけるか。瞬時の判断力と柔軟な機略が要求されるこのゲームは、たしかに貴族に似合いの遊技だった。
 知的で、やや気取った、戦略ゲーム。
 貴族と冒険者では、生きる世界も生きていくための資質も全く異なる。チェスの要素や雰囲気が受け入れられないのか、冒険者のたまり場である酒場では、カードゲームが主流だった。
 チェスなど、見たことも聞いたこともないという者の方が、圧倒的に多い。

 足のついていない薄い板状のチェスボードは、それほど高級な品ではなかったが、素朴で簡素な木目が美しかった。なめらかな手触りが、長年大切に使い込まれてきたものだと伝える。駒はきちんと整理されて、近くの小箱に収められていた。
 部屋の中央にある丸テーブルにボードをセットし、手際よく駒を並べて、エルフィンはカウンターで酒を飲んでいる顔なじみの男に声をかけた。

「指せるんだろう? 相手をしてくれないか」

 ――銀竜の首飾りを持っているような男なのだ。
 エルフィンの予想に間違いはなく、ぽりぽりと頬をかきながら、ゼネテスは部屋に足を踏み入れて、すすめられるまま反対側の椅子に腰掛けた。
 目の前のチェスボードを見て、ぼそりと呟く。

「懐かしいな、このボード」
「覚えがあるのか」
「ん。昔は、こいつでよく遊んだもんだが」

 双子の姉妹と目の前の男とは年齢に差がある。ゼネテスの相手をしていたのは、兄の方なのだろう。
 昔、と断っているように、二人のそんな姿など、エルフィンは一度も見たことがなかった。

「一応ルールは知ってるが、ずいぶんと久しぶりなんでな。手なんてもう忘れちまってるぜ?」
「そいつは助かる。私は覚え立ての素人なんだ」
 エルフィンの言葉に、ゼネテスは肩をすくめた。
「言っとくが俺は昔から、ものすごく弱かったぜ。子供にも負けるくらいにな」
 ……相手をしていたのは双子の兄ではなくて、やっぱり妹たちの方だったのかもしれない。
 ゼネテスは懐かしいものを見る目で、手前の白い駒に触れ、最初の一手を指した。

 



 



 目の前の台には、黒曜石と大理石でチェッカー模様が刻まれている。
 優美な彫刻の施された象牙のチェス台を挟んで、義理の兄妹が勝負をしていた。

『こんなまどろっこしいもの、どこが面白いんだよ!』
 さっきまで相手をしてくれていたチャカは、そういって一足早く、寝室に引っ込んでしまった。
 かわって相手を務めているのはレムオンだった。
 宮廷から帰ってきたばかりだ。政務が終わって疲れているだろうに、チェスを片づけようとしていたエルフィンの姿を見つけて、一局手合わせしてやろう、と 自らチェスの相手を買ってでたのだ。指南をつとめる気なのかもしれないし、久しぶりに会う義妹の様子が気になったのかもしれなかった。

 美しいが、表情をあまり読ませない金髪の貴公子の視線は、目の前のボードに落とされている。
 とっくに夕餉は終わっていたので、先ほどセバスチャンが、ワインをついだグラス二つと、つまみ代わりの軽食をサイドテーブルに用意していった。
 そのワインで軽く口をしめらせながら、レムオンはエルフィンの布陣を見て言った。

「ふん。だいぶ様にはなってきたようだな」

 定石に則って、まずは相手を追うより、自軍の駒を動きやすくするための布陣を敷いたエルフィンの手に、レムオンは満足したようだ。
 駒を一つつまんだエルフィンが、レムオンを見据えて、からかうように言った。
「お前が最初に私に言ったんだぞ。役立たずの貴族など当てにならない。世界を旅して、多くのものを見ろ。従順な部下より、共に歩める同志が欲しいと」
「……何の話だ」
「チェスの基本の第一は、風通しをよくすること、だろう?」
 自軍の駒が自軍の動きを遮っていては何もできない。だからゲーム開始から最初の数手で、自分の駒を動かしやすく、外へと出してやることが必要となるのだ。
『世界を見ろ、エルフィン』
 領主としての雑務は自分がこなすから、お前は外へ出てこいと、この男は言った。

「覚えていたようで何よりだ」
 レムオンは小さく笑った。
 その笑みに、皮肉めいたところは見あたらなかった。純粋に愉快なものと思ってくれているようだ。
 自分はしょせんノーブル伯という駒の一つにすぎない。そのことをエルフィンは自覚している。
 自覚しているのと、利用されてやるのはまた別だが、できる限りレムオンの力になってやりたいとは思っている。
 通常のチェスなら、狙うのは相手のキングなのだろうが――。

「お前はどんな風に駒を配置して、何を狙うんだろうな、レムオン」
「読んでみたらどうだ?」

 レムオンが唇の端だけをそっとつり上げるような、見慣れた笑みを浮かべた。
 その言葉に、エルフィンも真剣な表情になって、盤上の駒を見つめる。
 チェスというのは、一つの駒の動きだけに目を向けていればいいというものではない。
 総合的な布陣が勝敗を分ける。どこに何を配置するか――そこにプレイヤーの技量があらわれる。
 あらわれるのは技量だけではない。おそらくは性格も。
 レムオンは堅実な陣を敷く。そして攻撃の手は、的確で鋭い。冷静な手腕で相手を追いつめていく。
 その手を見ながら、エルフィンは昼間の男を思い出していた。



 しばらく互いに無言で、ゲームを進めていた。駒を動かす音だけが、夜の室内に響く。
 いつもとは違うエルフィンの手に、レムオンは形のよい眉を少しばかりしかめた。
「……何を狙っている?」
「さあ? 読んでみたらどうだ?」
 エルフィンは答えたが、実のところ何も考えていない。
 ただ、駒を動かしながら、盤上に別のものを見いだしていただけだ。
 ――あの男なら。



 特に迷いもなく手を動かし続けていたが、やはり熟練のレムオンに対するには、少しばかりエルフィンの技量が足りなかったようだ。
「チェック」
 宣告と共にレムオンの黒のクイーンが滑り出てきたのを見て、エルフィンは思わず舌打ちしてしまった。
「はしたないぞ」
 とがめながらもレムオンの声には、どこか嬉しそうな優越感がにじんでいた。
 この義兄は、時々こういう素直な面を見せる。宮中ではありえない、身内だけが知る特権だった。
 ……そうくるか。
 負けが決まったことを認めつつ、エルフィンは白の駒を動かしてクイーンをとった。
 クイーンを捨て駒に、空いた道を通って、レムオンの黒の駒がエルフィンの白のキングをしとめた。
 チェック・メイト。

 勝負は決まったが、なんとなくエルフィンはそのまま一人でゲームを続ける。
 実際、あと少しのところだったのだ。
 敵の陣までたどり着いたポーンが、最強の駒に『昇進』して――キングをしとめる。
「何をやっている」
「いやちょっと、な」
「馬鹿か。終わった勝負に後などない」
 レムオンの言うとおりだ。すべてが終わってしまってからでは遅いのだ。
「……何を考えていたんだ?」
 再度レムオンがたずねてきて、エルフィンは肩をすくめた。
「知り合いがちょっと変わった手を指してきてな。真似をしたくなったんだ」



 ゼネテスは、言葉のとおり、驚くほど弱かった。
 彼の手を見て、エルフィンは呆れた。たしかにこれでは、子供にも負けるはずだ。
 ゼネテスは捨て駒を嫌った。だがチェスとは、自分の価値の低い駒を奪わせるかわりに、相手の高位の駒を奪って、キングを追いつめる――つきつめれば、そういうゲームなのだ。捨て駒を拒否すれば、自らの首を絞めることになる。

 捨て駒を嫌うあの男は、自らの手で敵のキングを討ちに行く方が向いているのだろう。
 敵の陣地に入り込んだところで、真価を発揮するのだ。ポーンの昇進のように。

 



* * *



 第一次ロストール戦に際して正体を現した剣狼は、ノーブル伯に耳打ちで告げた。

「俺が、ものすごくチェスが弱いことは、皆には黙っててくれよ。士気に関わる」
「当たり前だ。言ってどうする。はっきり言って、私はとても不安だぞ」
 戦略ゲームが恐ろしいほど弱い指揮官など、一番戦場に欲しくない存在だ。
 だが、ゼネテスの表情は余裕に満ちていたし、エルフィンの答えも冗談の混じったものだった。
「だーいじょうぶだって。盤上と現実は違う。俺、実戦には強いんだぜ?」
「ああ。期待している」
「任せろ」

 捨て駒を嫌ってチェスに負ける男なのだ。
 言い方を変えれば、それだけ味方を生かすことを強く望んでいることになる。
 勝利に重きを置くのではなく、死なないことに重きを置く男なら――この戦、乗り切れる気がする。

 冗談交じりの会話を交わしながら、ゼネテスとレムオン、両者の手を知るエルフィンは、心の片隅で密かに考える。
 この戦は乗り切れるかもしれない。
 けれど、いつか起こるかもしれない、別の争いはどうだろう?
 しょせん自分も駒の一つにすぎないと承知しているが、相手の駒についている紋章が、黒旗に金の獅子か、ロストールの竜の家紋かでは話が大きく異なる。
 ――そしてレムオンは、クイーンを捨て駒に、キングをとる正攻法を選ぶ男なのだ。

 ロストールという盤の上に駒が並ぶ。
 その布陣は、見えないところで整いつつある。

2006-10-01

「相手の手を読むのは得意だが、自分の駒を切り捨てられないため、イカサマをしなければ子供にも負ける」エンサイクロペディア・ゼネテスの設定。実際のゼネテスは健全な現実主義者で、レムオンは周到な布陣を敷いておきながら、私情で盤をひっくり返した人ですが。