夜の谺 

1. twilight

 夕陽は冬空に冷たく燃え広がっていた。
 眼下には、白い天幕の群れが、ぽつぽつと間隔を開けて並んでいる。小高い丘の上にたたずんだツェラシェルは、木の幹に背をあずけて平野を見下ろしていた。
 ロストールを出て東に数キロの国境付近、竜骨の砂漠の南の街道を逸れたところに広がる平野部に、ゼネテスは陣を張っていた。大々的なものではない。斥候が敵陣を視察するために張っているような、申し訳程度の小規模な陣だ。
 だが恐ろしいことに、これが正真正銘の本陣、主戦力だったりするのだ。

 ……ロストールの貴族どもはボンクラぞろいと思っていたが、この状況下で参戦拒否とは、あきれた神経だな。

 さばさばとツェラシェルは考え、皮肉な笑みを浮かべたつもりだったが、あまりうまくいかなかった。
 天幕の群れは、微かな茜の色に染まり、どこか寂しげに心許なく映った。




 エリスに呼び出され、ゼネテスの元へ行ってこいと命令を受けたとき、開口一番断った。
 だがエリスは薄く笑って、それを認めなかった。
「ゼネテスを窮地に追い込んだのは、この私だからな」
 自嘲気味にツェラシェルを見て続ける。
「レムオン坊やは、国を潰す気まではなかろうと思っていたが、見通しが甘かったようだ」

 新月の夜の一件。それを知っているのはごくわずかだ。
 目の前の王妃と、自分と、それから――。

「お言葉ですが、失敗したのは、余計な邪魔が入ったからです」
 あんなダルケニス、正体暴いて追い払っておけば、ファーロスは腑抜けぞろいの貴族連中を完全掌握して、今度の大戦に臨めたのだ。
 その筋書きをぶち壊したのは、他でもないゼネテスだ。
 エリスだって当然知っているはずだが、彼女はそれについては触れなかった。
 苛立たしげにツェラシェルは歯がみする。人道的な正しさで言えば、確かにゼネテスは褒められるのだろう。だが、ゼネテスのこういう偽善めいたところが一番許せなかった。
 適当な顔で適当に正しいことを言って、肝心のところで、誰一人救えない。

「人というのは、疑心暗鬼にとらわれると、ばかげた妄想に振り回される生き物でな」
 エリスが口を開き、淡々とした口調で続ける。
「たちの悪い噂が、いくつか戦場に流れているようだ。ゼネテスは事の次第によっては、ディンガルに講和を申し出るのではないかとな。代償として差し出すのは己の首だろう」

 ツェラシェルは舌打ちした。下手に甘いあの男なら、命を救うためだとか何とか言って、やりかねない気もする。
 もっともカルラが、それを受け入れるかどうかは謎だが、あの青い鎧の小娘も、相当な変わり者だそうだ。案外ゼネテスと気が合うのかもしれない。

「あるいは、将軍の首を持って行くなり、部隊の情報を漏らすなりすれば、ディンガル軍はそれに対して相応の報酬をもって迎えるそうだ。元いた陣営に関わりなく優遇する」
「……馬鹿な貴族が聞いたら、涎を垂らして乗りそうな話だな」
 独白を漏らしたツェラシェルに、フフ、とエリスは笑った。
「リベルダムのアンティノの件は知られておろう。同じ餌に引っかかるほど愚か者の集まりではないと思いたいが、追いつめられると、三手先より目先の利に傾く心性を、否定はできんな。
 だからお前には、戦場で、この流言が悪い方へ向かわぬよう監視をして欲しいのだ」

 手助けではなく監視を、と。
 この言葉は自分を動かすための方便にすぎない。しかしエリスは、この世界でただ一人、ツェラシェルが逆らうことのできない、恩義ある雇用主だった。
 そんな彼女に、お前も共犯だと暗黙に告げられ、責を取れという代わりの命令をこんな言い方で下されれば、これ以上、見苦しく逃げ回ることもできなかった。
 だから今、自分は仕方なく、ここにいる。

 冬の日は驚くほど短い。すでに残照は失せ、夕日の後を追うように三日月が架かっている。
 濃紺の夜が寄せる空の隅に、細く光る月の影に目をとめ、ツェラシェルは一人、風に吹かれていた。






2.midnight

 夜の帳が平野を覆った頃を見計らって、ふらりと天幕の外に出たゼネテスは、足下の暗さにも躊躇することなく、陣の外れへ向かう。
 見張りの一人が声をかけてきた。

「ゼネテス様、こんな夜更けにどちらへ?」
「んー、酒が切れちまってな。補給しに」
「そのようなこと、命じられれば、私が行って参りますが」
「いいって。どうも夜遊びのクセが抜けてなくて、目が冴えてんだ。散歩がてらに行かせてくれよ」
「はあ……」
「まったく、とっととディンガル軍を追い払って、手近なとこに酒と女がある場所に戻りたいねえ」

 総大将にはあるまじき台詞だが、ここではこういう姿が効力を発揮する。見えない不安がたちこめている陣において、陽気で前向きなゼネテスの言動は、前回の功績と重なって、下の者たちには頼もしく映るようだ。
 その証拠に、気さくに笑いかけられた見張りは、戸惑いつつも、安心したような笑みを返して、ゼネテスを見送った。

 ――まあ、上が辛気くさい顔してたら、士気なんてあがりようがないわな。

 すたすたと歩きながら、ゼネテスは考える。表向きは普段と変わらぬ言動を保っているが、それもまたこの陣と同様、虚勢でしかない。
 はっきり言って、今回ばかりは悪い予感だけしかしない。そもそも勝てる戦ではないのだ。
 精鋭揃いのディンガルの兵力はこちらの十倍だ。十倍ということは、ごくごく単純に考えて、よほどうまいこと立ち回らないと、こちらの一人が、相手によってたかって袋だたきにされるという計算になる。
 一人で十人を倒す、という発想をしないあたりがゼネテスだが、相手をどれだけ倒すかよりも、いかにこちらを守り抜くかが勝敗を決すると思っている。
 ひとまず数だけそろえて、何とか陣の体裁を整えたが、それでも戦場の要所を埋めるには至らなかった。
 穴だらけのこの陣を、ディンガル軍が警戒してくれているのは、ゼネテスが秘めている(と勝手に思われている)奇策を恐れての事だが、ひとたび戦の火ぶたが切られれば、それがただの買いかぶりにすぎなかったことが分かるだろう。

 嘘をついて、さもあるように見せかけておきながら、その実体は正反対。
 無理難題が山積みの今回の戦闘で、一番の問題は、ゼネテスの中にこれといった名案が全くないことだった。
 いや。名案じゃなくて良いのなら、とれる手段はあるのだが。




「総大将が逃亡か?」

 貯蔵庫の前までやってくると、背後から冷たい声がかかった。
 驚いて一瞬振り返り損ねたのは、不意に声をかけられたからではなく、姿を現すとは思いもしていなかった人物の声だったからだ。一拍遅れて振り返り、月のない闇の中で、気休め程度の篝火に、白い法衣の輪郭が亡霊のように浮かび上がっているのを見つける。

「……どうしてここに居る?」
「エリス様の命令だ。戦場で馬鹿な噂がはやっているから、面倒事が起こらないよう見張れとな」
「色々聞いたようだな」
「あんたの首には、べらぼうな高値がつくそうだな。そんな価値もないくせに」
「ありがたいねえ。心配してくれているのか?」

 軽口を投げたのはわざとだった。
 本気で苛立った気配が闇越しに伝わってきたが、返ってきた言葉は意外なものだった。

「あんたのそういう、ふざけたはぐらかしが一番むかつくんだよ。てめえなんか将軍でも何でもない。どっかの名もない雑魚に叩ききられて、地べたを転がる方がお似合いだ」

 意外な――いや、自然な言葉。
 将軍として首を差し出す資格なんてない。何かを救うために自分を投げ出す行為は認めない。
 闇に目をこらす。
 本当にそこに居るのか居ないのか、確信が持てないまま声をかける。

「別に悲劇の英雄を気取る気はないさ。俺はどうやったって、そんなものにはなれない」
「当たり前だ。てめえなんかじゃ、一生かなわない」

 打てば返ってくる、こだまのような声。
 いつの間にか言葉など通じなくなっていた。投げられてくるものが、どこに向かっているのか分からなければ受け止めることも、投げ返すこともできない。
 だが、今は虚空に向かって投げる声を、跳ね返して相手に届ける、見えない的があるようで。
 つかめそうでつかめない闇の向こう。
 そうだ。確か、そういう相手が――。

 その一瞬が魔法の切れ目だった。
 幻影は無意識の海を泳ぐ。意識して触れれば、とたんに消えてしまう。
 会話が切れたとたん、見えない糸が切れたような、飽和した空気が満ちた。
 手のひらに確かに受け止めた雪が、解けてしまったような。
 ……ああ、行ってしまった。
 胸にあいた穴を風が吹き抜けていく。惜しいとももどかしいとも思えなかった。何かを見送ったような、そんな微かな空しさと哀切を感じて、ゼネテスは頭を振る。
 背を向けて告げる。

「酒でも飲んで気を晴らして寝て、悪足掻きしてみるさ。だから叔母貴の方を頼む」
「あんたの指図は受けない。俺が従うのはエリス様の命令で、あんたじゃない。エリス様さえいなかったら俺はあんたなんかとっくの昔に裏切ってる」

 ツェラシェルは一息にそう言い、言葉を切った。ゼネテスは答えなかった。
 闇夜に沈黙が訪れる。
 もう一度、繰り返して、ツェラシェルが言う。

「戦場での頭はあんたかもしれないが、忠誠を誓う君主がいなければ、軍なんか見限るぜ」

 さらりと闇に残されたのは、堕天使の助言。
 はっとしてゼネテスが息を止めて振り返ると、すでに白い法衣は消えていた。
 最初から、幻であったかのように。






3.daylight

 翌朝、ゼネテスから招集がかかったが、もちろん行かなかった。
 代わりに妹たちが、奴のもとへ出向いている。
 蝕まれている身体に、あまり休眠は必要ない。だから一晩中起きていた。
 晴れた空を見ながら、今日一日何の音沙汰もなかったら、エリスの元へ戻ろうと決めていた。奴の言葉に従うわけじゃない。こちらから見限ったということだ。
 ヒントだけは与えてやった。あとはあいつ次第だ。
 賭けてみようかと思ったがやめておいた。賭けにしてしまったら、負けるに決まっている。

 背後で人の気配がした。二つの影がツェラシェルの傍らにやってきていた。
 急ぎ足で戻ってきたヴァイライラとヴィアリアリが、ツェラシェルに伝言を渡す。

「兄さん。ゼネテス様からの命令です。ディンガル皇帝ネメアの動向を探ってくるように、と」

 指図には従わない。施しも哀れみも受けない。馴れ合いもごめんだ。
 だから自分に都合良く、絵を書き換える。
 詐欺師の仕事は、そういうものだ。
 ツェラシェルは立ち上がり、妹たちに告げる。

「虫の好かない野郎だが、恩を売っておくのは悪くない。ヴァイ、ヴィア、稼ぎに行くぞ」

 ――虚構も流言も、詐欺師の領分だ。どうせなら、もっとうまく活用してやる。




 ディンガル軍の間に一つの噂が流れる。
 それがゼネテス配下の密偵たちの仕業だと分かるのは、ロストールが二度目の奇跡を起こした後のことだ。

2007-01-24

『ディンガル軍ガセネタにより混乱』 これってゼネテスよりもツェラシェルの発想っぽいと思いました。作戦発案者ツェラシェルなんじゃないかと、今でも7割くらい思っています。