残照の花・同志
リューガの墓の前で身をかがめ、そっとエリスは白い薔薇を置く。
先代当主に手向けたものではなく、その夫人に対しての花だった。
互いに相手の顔は知っているが、ほとんど交流のなかった相手だ。花を手向けられても困惑するかもしれないが……どうだろうか。
死者であれば、現世のしがらみなど飛び越えて、語り合えるものかもしれない。
うわべの姿を抜きにした、胸の内をあかした本音の会話を。
――そんなことを考える私は、きっと寂しい人間なのだろうな。
同情や憐れみとは無縁の生き方をしてきた。それは、自らが選んで、自覚あってのことだった。分かってはいるが、ふと、話し相手を求めてしまうことはあった。
夫も、娘も、宮廷の家臣たちも、それを満たしてはくれない。
策略を得意としていれば、人がどう動くかを推し量ることはできる。だが、それとこれとは、全然方向の違うものだった。騙すことは自分だけでできるが、信頼を築いて語らうことは。
食べ物や衣服や宝石や権力であれば、自らのやりようで得られる。だが人は……人の心は、求めて得られるものではないのだ。
ましてや自分のやり方と振る舞いは、相手に警戒心を抱かせ、猜疑心を植え付ける。
娘を見ていれば、嫌でも思い知らされる。
目の前の光沢のある石の表面に、人の影が映りこんだ。
座り込んだまま思考の淵に沈み込んでいたエリスは、瞬時に意識を背後に向ける。
まさか、当主自らが現れるとは。
……それとも、これが貴方の答えというわけか? スム殿。
「――何のつもりだ」
ドレスの裾を気にしながら立ち上がると、思った通りの鋭い声音が飛んできた。
振り返り、自分を睨んでいるレムオンに、余裕を持ってエリスは答える。
「場所が変わっても相変わらずだな。墓を訪れることに、理由が必要か?」
レムオンのきつい眼差しはゆるめられなかった。先代エリエナイ公に通じる、繊細さを感じさせる整った顔立ち。貴族らしい容貌とでも言うべきだろうか。甥とくらべれば一目瞭然だと考え、エリスは笑いそうになった。
レムオンの金の髪が、夕陽で淡く光っているように見える。花を手向けた彼女も、確か金の髪をしていたはずだ。顔立ちは似ていないが、雰囲気は似ていなくもない。
「王妃ともあろう方が、どうして墓参りなど。しかも……当家の墓に」
レムオンの皮肉を受け、エリスは思案する。
さあて。なんと答えようか。
目の前の貴公子から、リューガの墓に目を向ける。
故エリエナイ夫人、スム・リューガは、聡明で、密かな辣腕家だったのだろう。おそらくは先に亡くなった先代エリエナイ公よりも、ずっと有能な。
もっとも彼女の牙は、最後まで注意深く隠し通されていたようだが。
「そなたの母君には、テジャワの変で世話になった。物腰の柔らかな控えめな貴族夫人に思えたが、その実、内面に鋭く研がれたものを秘めているような人であった。互いに身辺が落ち着けば、もっと色々話してみたいと思った。亡くなられたことが、今でも惜しまれてならぬ」
そう。話してみたかったのだ。彼女とは、いつかゆっくりと。
テジャワの変では、多くの貴族が連合側に与した。
そんな中において、女だから日和見の立場しかとれないのだろう、と皮肉の目を向けられながらも、リューガ家の摂政スムは、中立の立場を維持し続けた。
愚かだったのはどちらだろう。男たちは、何でも力で推し進めようとする。
連合側には、確かに周到な計画はあったが、それは事前に練られた物でしかない。いざ計略が進んで勢いづきすぎた際に、抑止するだけの冷静さはなかった。
あと一歩の勝利に酔えば欲が出る。そこに、つけいる隙が生まれる。
権力志向がどういうものか、エリスはよく知っていた。
外から力で攻めずとも、内側から目に見えぬ亀裂を入れて切り崩すやり方は、彼女の得意とする手だった。
黙って、注意深く、目を瞠る。より良い方法を探って、答えを見つけ、最後に勝利を得る。
答えが見えるだけの聡明さがあれば――そういうものを持っている人であれば。
スムの名をはっきりと認識したのはテジャワの一件でだったが、今のエリスには、別の意味ももっている。
レムオンの母親。否、『義母』と。
彼女が有能でなかったわけがない。結局最後まで、レムオンが庶子であるという証拠を掴ませなかったのだから。
先代エリエナイ公爵のそちら方面での放埒ぶりは、貴族の間では影で知られた話だった。もっとも貴族にはよくある話でもある。だからこそ、そうした事柄は、念には念を入れて完璧な後処理を施される。
疑う余地があっても、証拠は片鱗もなく。見事だったと言えよう。エリエナイ公亡き後のリューガ本家――彼女の近辺からは、事実を匂わせるようなものは、一切出なかった。
ボルボラやフリントに命じて、外から証拠を見つけざるえなかったほどに。
私情に目が曇ってしまえば、冷静な判断力を失う。
それが分かっていれば拘泥することもなかっただろうが、彼女は……スムは、リューガに貢献する自分に、痛みを覚えることはなかったろうか。
振り返らぬ夫の姿が胸をよぎることは。義理の息子であるレムオンの姿に、その背後にあるリューガという家名に対する自分の在り方や、時々荒れ狂う心の内の感情に、懐疑を抱くことはなかったろうか。
それとも。
摂政としての、母としての、責務を果たすことで、自分の中で何かを貫こうとしたのだろうか。
死者の生前を勝手に想像して、己を重ね合わせることは、自己憐憫に過ぎない。
それを認めながらも、エリスはなかった可能性を考えてしまう。
……できることなら、語り合ってみたかった。
政治のこと、それだけではなくて、もっと別の何かを。
母である身として、あるいは、女同士として。
手向けた花に目を落とし、放っておけば、またつらつらと沈みそうになる思いを切って、エリスはレムオンに背を向ける。
墓所というのは、思考を過去に向かわせる引力を持っている。
スムはずいぶんと恐ろしい後継者を育てた。まだ若いが、油断のならない政敵を。
ほんの微かに。好敵手を見つけたような興奮と、自らを省みる自嘲に似た笑みを、見えないように浮かべて、エリスは墓所の更に奥へと向かう。
腕の中にある白い花の数は、死者の数。
花弁に似た女性の柔らかさを、誰にも見えぬ内に秘め、王妃は墓を見舞う。
今度は、王族の近親者の眠る一画、リュー家の墓へ。
2007-04-11
政治の話もするでしょうが、お互いに通じ合うところがあるから、ごく普通の子育ての苦労話など交わしてほしい。対等であり・普通の話ができる同性の存在。……エリスにとって、そういう相手は、居なかったと思うので。