残照の花・政敵
傾き始めた陽が、辺りをにぶい金の光で染めていた。
ロストール城を頂きとして、ゆるく流れる丘の西端。城下町を一望できる高台は、貴族の墓所となっている。
レムオンは身を潜めるようにして――実際人目につかぬよう細心の注意を払って――墓所を訪れた。
今の自分の姿が見つかったら、どんな事態を引き起こすかわからない。リューガの変を起こした当人が生きていて、殺した相手の墓へ向かおうとしているなどと。
いや、この銀の髪では違った恐怖と憎しみを呼ぶのかもしれない。国民を欺き続けていたダルケニスとして、罵られるか、恐れられるか。
自分を嘲笑おうとして、その口元が中途半端に固まったのを自覚する。
心をえぐるその事実は、自嘲するには苦すぎた。
手の中にあるのは、布でくるんだ白い薔薇が一本切りだった。
持てあますような鬱屈した思いでそれを携え、レムオンは立ち並ぶ白い石の間を縫って、石畳の細い道を進んでいく。
王族の墓は墓所の一番奥にある。
丁寧に刈り込まれた灌木が、うずくまるような影を作っている。石積みの囲いでくっきり外界と隔てられたこの場所は、黄昏の光の中で、死者の安息所というよりは、忘れ去られた庭園と呼んだ方が相応しい風情があった。
レムオンの足が止まった。
目指す墓標の前に、先客の姿をみつけた。かなりの長身、がっしりと広い肩。動かぬ影は彫像にも思えた。
ゼネテスはいつもの陽気さをおさめて、粛然とした眼差しを墓標に向けていた。
彼が立ち去るまで身を隠していようと思ったが、相手は歴戦の戦士だけあってレムオンが決断するより一瞬早く、ごまかしのきかない鋭敏さで背後を振り返った。その目に、ほんのかすかな驚きが浮かびあがり、夕暮れにとけ込むように和らげられる。
「……なんだ、お前さんかい」
驚きの中に、瞬間的な敵愾心に似たものを感じ取ったが、和らげられた目には、それを流そうとする意志が見えた。
そもそも自分は、彼に対して赦しを乞うことはあっても、文句を言える筋ではない。
覚悟を決めてレムオンはゼネテスの前に進み出る。ただ目だけを合わせ、無言のまま膝を折り、刻まれたばかりのエリスの名の前に、花を供えた。
――真紅の薔薇の方が相応しかったのかもしれない。
ふとそんなことを思った。
傍らに立ったまま、そんなレムオンの姿を見ていたゼネテスが呟いた。
「叔母貴もよくそうやって、薔薇を一本ずつ供えて回っていたな」
「……知っている」
小さく答えると、ゼネテスが伺うような目でこちらを見た。
過去の話は懺悔に似るのかもしれないと、既視感を覚えながら、レムオンは口を開く。
「以前、一度だけ、この場所で会ったことがある」
*
宮廷からの帰り道、亡母を見舞おうと訪れ、目的の墓標の前に先客の姿を見つけた。
一人の貴婦人だった。墓所を訪れるに相応しく、黒とも灰ともつかない色の沈んだドレスを身に纏っている。金の髪だけが、ただ一つの飾りであるかのように、夕陽の中で輝いていた。
刻まれているリューガの家名の前に、白い薔薇を置いて、彼女は立ち上がった。
女性としてはかなりの長身だった。鋭く凛と伸びた背筋が、淑女としての柔らかさよりも、戦場の騎士がもつような気品と気迫を醸し出していた。
覚えのある、その後ろ姿。
正体を悟った瞬間、条件反射のように問いただしていた。
「――何のつもりだ」
「場所が変わっても相変わらずだな。墓を訪れることに、理由が必要か?」
気づいていたのか、不意の局面には慣れているのか、振り返った顔に驚きの表情はなく、悠然としてエリスは答えた。右腕には、布にくるまれた白い薔薇が数本抱えられていた。
相手の思惑をはかるように、真紅の装いとはひと味違うエリスの姿をにらみ、軽く唇を湿らせてレムオンは再び尋ねた。
「王妃ともあろう方が、どうして墓参りなど。しかも……当家の墓に」
もっとも相応しくない人物の訪問。それは追悼ではなく、冒涜だ。
口調こそ丁寧だが、視線と言葉尻に含まれたレムオンの本音に対して、エリスは旧友に向けるような静かな眼差しをリューガの墓に向けた。
腕に抱えている白い薔薇がかさりと乾いた音を立てる。
エリスは表情を読ませないまま、淡々と続けた。
「そなたの母君には、テジャワの変で世話になった。物腰の柔らかな控えめな貴族夫人に思えたが、その実、内面に鋭く研がれたものを秘めているような人であった。互いに身辺が落ち着けば、もっと色々話してみたいと思った。亡くなられたことが、今でも惜しまれてならぬ」
静かな口調だったが、その内容に、カッと頭に血が上るのが分かった。
よくも自分の目の前で、ぬけぬけと……!
義母の事に触れられたのも不快なら、テジャワの変の話題も不快だった。
ロストール貴族の勢力図を大きく書き換えることになったこの政変については、後から話を聞いて、おぼろげにしか知らない。当時は、まだ幼かった自分に代わり、義母のスムがリューガ家の摂政を務めていた。
決起時はナグイゼ伯テジャワ率いる貴族連合側が、圧倒的有利に事態を運んでいた。連合側は協力要請をリューガ家に対しても送ってきていたが、スムはそれを拒み、ファーロス側にも連合側につかず、中立の立場を維持し続けた。
やがてエリスの策略が当たり、貴族たちが内紛を起こすと、スムはエリスの配下フリントの要請に従って、ファーロス側につくことを表明した。
結果として、貴族連合側は敗北し、ほとんどの有力貴族が処罰の対象となった。
沈む船と残る船が見事に分かれたこの政変において、権勢を維持できたのはごく少数。
リューガ家が今も栄華を誇ることができるのは、この政変におけるスムの的確な見極めと決断によるものだった。
同時に。
この政変によって、ファーロス家のロストール貴族筆頭の地位は揺るぎないものとなり、その勢いは他に並び立つものがなくなった――。
エリスは視線をレムオンに戻した。いつになく透明な眼差しで告げる。
「彼女が健在であれば、そなたと私の関わり方も、また違ったものになっていたかもしれぬな」
一瞬レムオンは本気で腰のダブルブレードを抜きそうになった。
沸騰する怒りを抑えて、押し殺した低い声で応じる。
「王妃、仮にもここは墓所だ。俺に対する挑戦や愚弄ならば、宮廷で行えばいい」
「……無理もないことだと思うが、うがった見方をしているのはそちらのほうだ。やはり私とそなたは相容れぬか」
「今更何を。母への讃辞は謹んで受け取るが、現在のリューガの当主は、この俺だ」
「知っておるよ」
エリスはすっと背を向け、その場を離れた。墓所の更に奥へと向かう。
その背を苦々しい思いでレムオンは見送って、視線を落とした。
供えられたばかりの花を手に取る。投げ捨ててしまおうかと思ったが、さすがに自制して、形を整えるようにして置き直す。醜い争いを持ち込んで、死者の眠りを妨げるような真似はしたくなかった。
今のリューガの繁栄は、亡母の尽力によるものだ。
その恩に報いるためにも――ファーロスのこれ以上の台頭を許すわけにはいかない。
「……あの雌狐が。何の真似だ」
何のつもりがあって、墓など見舞う。
自身の手で墓へと送った者だって少なくはないはずだ。
まさか、償いの意味や、悔いがあってのことではあるまい。
*
墓標に刻まれているのは、祈りの文句のみだ。
生者の声はなく、何も語られぬまま、石だけが残される。
語り終えて口をつぐんだレムオンに応えるように、ゼネテスが静かに言った。
「花を供えることができるのは、生き残った者だけだからな」
それから目映そうに目を細めて墓標を見つめる。
「俺もお前さんも一歩間違えばここにはいない。仲良く墓の下だったかもしれん。お前さんにとって、叔母貴は憎い敵だったかもしれんが……これだけは言わせてくれ。あの人は、自分のしたことは、どんな小さな事にしても、一度も忘れたことはなかったぜ」
生き残った者は、花を供える。
答える言葉を持たず、レムオンは黙ってそれを受け止める。
償うには、どうすればよいかまだ分からない。悔いがあるかと問われればあると答えるだろうが、たとえ時間を戻せたところで、遅かれ早かれ、クーデターは決行していたろう。新月の夜の出来事を思い返せば、今でも屈辱と怒りで、体中の血が煮えくりかえる。
悔いはあっても、やめることはできなかった。
――彼女が健在であれば、そなたと私の関わり方も、また違ったものになっていたかもしれぬな――
まだ幼かった自分に代わり、母は、テジャワの変でファーロスにつくことを決め、その英断がリューガを支えた。成長した自分は、母に報いるために、リューガを背負って、打倒ファーロスの旗頭となった。
そしてテジャワの変から、十数年の時が流れ、今度はリューガ当主が政変を起こした。
遺された物を守り抜くために、相容れない物を排除する。
血で血を洗うような、くるくる巡る権力の輪。
リューガの変という出来事を、それが終わって自分たちがここに居ることの意味を、ゼネテスはどう思っているのだろう。
尋ねてみたい気もしたが、自分に許されることではないとも思い、レムオンは黙ってかつての政敵の冥福を祈る。
視界に入る空は、焼けるような見事な色彩でゆらめいていた。
太陽は、血の色に似た鮮やかな光を空に残して沈んでいく。
その名残の赤を吸い込んで、墓標の花は、静かに切なる白さをたたえている。
2007-04-05