ベル閣下と天使なあの子
トントントントン、と軽やかなノックの音がした。
ベルゼーヴァ・ベルラインは、わずかに眉をひそめ、デスクから執務室の扉へと目を上げた。
あがってきた膨大な書類の処理を午前中に済ませてしまうのが、完全無欠を目指す、若き宰相の手腕であり日課だった。
それを、取るに足らないような些事で邪魔するような凡人は、彼の最も忌み嫌うところだ。
『時計の針が、宰相の髪型と同じになるまでは、宰相の邪魔をしてはならない』
それが官僚たちの間でも、暗黙の了解となっていた。したがって、日の高くなる前に、ベルゼーヴァの元を訪れるような者は、ここディンガル政庁においては、ほぼ皆無のはずだった。
……火急の用だろうか。もしやネメア様の身に何か。
執務室のデスクには、毎朝のなじみの光景である書類の束が山となって積まれている。その大半には、すでに処理済みのサインを入れてあった。ここで一区切りをつけても問題ないはずだ。
それまでダブルブレードのごとく、正確無比な高速度で動かしていた羽ペンを置くと、ベルゼーヴァは一度服の襟を正し、彼特有の透き通る氷の声を扉にかけた。
「入りたまえ」
「はいっ! 失礼します!」
元気な挨拶と共に勢いよく扉を開けて入ってきたのは、赤い髪の冒険者の少女だった。
不機嫌よりも不審よりも真っ先に感じたのは、台風に遭遇したかのような一種の驚きと、台風後の再建に苦慮する心痛と、災厄だから仕方ないという諦観だ。
ベルゼーヴァは思わず目をつぶり、こめかみをおさえた。
「……何事かと思えば……君か」
「ベルゼーヴァ様、何かあったんですか。がっかりしているように見えますけど」
「それが分かるなら、君は即刻帰りたまえ」
「いきなり何を言うんですか!? やっぱり具合が悪いんですか! 私で良かったら力になります!!」
力一杯胸を張った少女を見て、ベルゼーヴァは心で呟いた。
私が疲れているように見えたなら、それは君のせいだ。
表情には出さない。あくまで冷静な表情のまま、ベルゼーヴァは机に肘をつき、指を組んだ体勢で、目の前に立っている少女をうかがった。
質素で泥まみれの装いは、冒険者に多くある風体だ。衣服の中身――肢体はそれなりに起伏に富んで豊かだが、それ以上にベルゼーヴァをおののかせるのは、その身体から無駄に発散されている活気と勢いだった。こちらの都合などお構いなしに、連日連夜燦々と輝く太陽のごとき、強烈な強引さを放って執務室に嵐を呼ぶ。
それは別の言葉に置き換えれば『傍迷惑』という。
彼女との出会いは、あの閉ざされた塔だった。
ディンガル帝都エンシャントのはずれに立つ陰気な塔は、塔と呼ぶより一種の監獄と呼ぶ方が似つかわしい。
実際あの塔の奥には、一人の凶悪な囚人が、壁につながれ拘禁されていた。
ベルゼーヴァとしては、いつか力尽きて干乾しにでもなっていてほしい相手なのだが、通常なら塵になるような時間をもってしても、『それ』は、未だに狂気の情熱を失わず、妄念と腐臭を漂わせた半不死の化け物として、無様に生きながらえていた。
そういう意味では、確かにもはや人ではない生き物になっているのだろう。ベルゼーヴァに言わせれば、それは進化などではなく、ただの『なれの果て』だったが。
害虫のようなこの化け物は、ベルゼーヴァにとっては嫌悪の対象だったが、それを世に放つことはできないという義務感と、醜悪だからこそ目に焼き付けておきたいという奇妙な必要性に駆られて、時折様子を見るため、その塔を訪れていた。
すでに魔物の巣窟となっているような場所だ。最近では、物好きな冒険者さえも立ち寄らなくなっていた。
何故かそこに、彼女が立っていたのだ。
ぽかんと空を見上げて。まるで生まれたばかりの赤子のような無防備な姿で。
当然ながら、そんな姿は魔物たちの格好の的となる。折しも魔物の牙が彼女をねらっていた所に遭遇し、思わず――自分ではあるまじき行動だったと、今でも不思議でならないのだが――ベルゼーヴァは声をかけてしまっていた。
『危ない!!』と。
聞けば、彼女は記憶を失って、気付いたらあの塔に居たのだという。
意識が覚醒して一番最初に目撃した人物(というか耳に飛び込んできた声)が、ベルゼーヴァだったそうだ。そのため彼女は、ベルゼーヴァに、ある種の恩義と親しみを感じているようで、さらにはこの世界を知るための指針、教師のようにも思っているらしく、しょっちゅうベルゼーヴァの部屋をたずねてくる。
ベルゼーヴァの迷惑顔にも、全く気付かず。
ちなみに記憶はないそうだが、自分の名前は覚えていた。
アンジェラ、というそうだ。『天使』という意味だそうだ。
ベルゼーヴァから見れば、彼女は『赤毛の天使』よりは、突然やってきては自分の秩序をかき回していく『赤い悪魔』に近い存在なのだが、天使も悪魔も、実はそう大差ないのだろう。
きっと、自分の行いの迷惑さに自覚があるのが悪魔で、無自覚なのが天使なのだ。
そんないきさつで、ベルゼーヴァは知らぬ間に少女の恩人となり、ついでに数少ない知り合いの一人という立場に立たされてしまったのだ。
「どうかしましたか? ベルゼーヴァ様」
ベルゼーヴァは、その声で瞬時に意識を目の前に戻す。
ぼさぼさの赤髪に縁取られた顔をこちらに向け、彼女が小首をかしげている。大きな口がきゅっとつり上がっている。山猫を思わせるような野性的な雰囲気の少女だったが、ただ一つ、その青い瞳だけは、宝石のように純粋で希有な光を煌めかせていた。
そう。この目が、そもそもの予想外であり、思わずの番狂わせになったのだ。
何の間違いか、ベルゼーヴァが助けた少女は、無限のソウルの持ち主だった。
どういう切り札となるかは未知数だが、その存在と動向を把握しておくことに損はない。ベルゼーヴァとしてはそんな計算が働き、彼にしては珍しく、関わりを持つことを拒否しなかった。
だがしかし、この無限のソウルは度し難い相手だった。
相手にすると、跳ね返ってくる疲労感も、すさまじかった。記憶がないせいなのかもしれないが、発想も理解力も常人とは違ったものになるようだ。
そんな浮世離れしたところも天使じみていたが、さっそくアンジェラは、いつものような唐突な発想で切り出した。
「あ! きっと帽子のことが気にかかっているから、元気がないんですね。
安心してください! 私、ベルゼーヴァ様にふさわしい帽子を探してきました!」
「……帽子? 何の話だ。そもそも君は何故ここにやってきた? 午前中は仕事があるから、訪問なら午後にしてくれたまえ、と以前伝えたはずだ」
「はい。それは分かっていたんですけど、『ベルゼーヴァ様が帽子を欲しがっているらしい』ってお話を聞いて。外出のためにお使いになるものですから、早いほうがいいかなと思って、こうしてお届けにあがりました!」
「『私が帽子を欲しがっている』などと、誰が言った?」
「ええと。町中の……いえ! 世界中の噂です!」
我が事のように誇らしげに答えるアンジェラの言葉に、ベルゼーヴァの思考が停止した。
この娘は何を言っているのだろう。
相変わらず、彼女の言うこと為すことは、ベルゼーヴァには理解しがたい。
「……噂?」
「はい。さすがベルゼーヴァ様、有名人なんですね! 皆さん、ベルゼーヴァ様の帽子の事を気にしていましたよ。『どんな帽子ならあのベルゼーヴァ様に似合うだろうか』って。やっぱり特注品じゃないと無理だろうということで、どんな品を頼も」
「その噂のことだが詳しく聞かせてもらえないかね!?」
アンジェラの言葉にかぶせるようにベルゼーヴァが勢い込んで尋ねると、アンジェラはきょとんとした顔で言った。
「たいした事ではないんですけど『ベルゼーヴァ様が、帽子を欲しがっているらしい』って。……欲しいんですよね?」
アンジェラが、きらきらと純真な目で、目の前のベルゼーヴァのトンガリ頭をじっと見つめた。お気持ちは察します、と言わんばかりの慈愛にあふれた瞳だった。
余計なお世話だったが、事態は猶予のならない方向に進んでいるようだ。
ベルゼーヴァは眉をひそめ、指を組み直すと、真剣な口調で問いただした。
「君は誰から、いや、どこでそんな噂を聞いたのだ?」
「仲間が教えてくれました。ロストールの酒場では、その噂で持ちきりなんだそうですよ。フェルムが話していたのをルルアンタが聞いて、ナッジとエステルが教えてくれました」
ベルゼーヴァは予期しなかった噂の出所に困惑した。
何故隣国に自分の噂が流れているのだろう。しかも全く政治的利点の見いだせない、意味のないデマだ。
アンジェラは基本的に、聞いたことにしか答えてくれないので、詳細をつかむには骨が折れる。ベルゼーヴァは根気強く問いを重ね、ようやく噂の道筋が見えてきた。
アンジェラは、その噂を、ナッジとエステルから聞いたそうだ。
その二人は、ルルアンタから聞いたという。
ルルアンタは、ロストールの酒場でフェルムから聞いた。
フェルムは、お客としてやってきたエストから聞いた。
エストは、館でセバスチャンから聞いた。
セバスチャンは、『良い外交と親善のためにはどんなものを贈ったら良いのか』と、ティアナ王女から相談を受けたという。
ティアナ王女は、どうやら母であるエリスから課題として出されたようだ。
エリスは、その情報を、密偵の双子から聞いたようだ。
密偵たちは、というと、ディンガル帝国の青竜軍副将軍アイリーン・エルメスと、玄武将軍ザギヴと白竜将軍ジラークが、各国の帽子屋を巡っているという情報をつかんだらしい。
『……おそらくディンガル帝国ベルゼーヴァの誕生祝いか何かで、そのような品を探しているのではないかと』
それが双子の見解で、双子はエリスにそれを報告し、外交の訓練には良い機会だろうと、エリスはティアナに『お前なら、かの帝国宰相にどんな帽子を贈るか考えてみよ』と宿題を投げられ、それがトップダウン方式で下々の集う酒場にまで流れたのだそうだ。
「お誕生日なんですよね? おめでとうございます、ベルゼーヴァ様」
「そんな覚えはない。だいたい、君に祝ってもらう必要などない」
「そうですか? でも私は今のところ祝う相手が居ないので、せっかくなので祝わせてください」
ベルゼーヴァはため息をついた。アンジェラはなかなか話が通じない娘だが、根は決して悪くない。素直な心の持ち主だ。これでも無限のソウルで、ただ記憶を喪失中だから仕方がないのだ。……そうであってほしい。
ふと嫌な予感がして、ベルゼーヴァは、目の前のアンジェラに尋ねた。
「……君は、もしかして、この噂について、誰かと議論を交わしたりしたのか?」
「はい、もちろんです! 猫屋敷の賢者様にご相談に乗って頂きました!」
「…………。君は、ネメア様の養父殿をこんなことで煩わせたのか?」
「でもオルファウスさん、とても面白がってらっしゃいましたよ。『そうですか。では何か私も微力ながらお手伝い致しましょう』って言ってくださいました。
さすがベルゼーヴァ様、人望が厚いんですね。皆さん、一生懸命お祝い用の帽子を考えているようです」
にこやかな笑顔と、よどみのないはきはきとした口調で告げられて、ベルゼーヴァはついと眉をつり上げた。
一体この不愉快な出来事の魂胆はどこにあるのだろう。誰の策略だ?
もちろん目の前の少女を疑ったりはしない。アンジェラは、こんないたずらを考え出すほどの才覚の持ち主ではなかった。一方、敵国ロストールの策略にしてはあまりにも程度が低く、悪ふざけの要素が高い。
自分の信頼と名誉の失墜を画策する、内部の犯行だろうか。
そこでベルゼーヴァの脳裏に、先ほどの会話の中に名があがらなかった残り二人の将軍の顔が浮かんだ。
「君は、青竜将軍カルラと朱雀将軍アンギルダンについて、この件で何か知らないか?」
「え? カルラさんとアンギルダンさんですか」
うーん、とアンジェラは眉を寄せたが、唐突にぱっと顔を上げた。
「あ。そういえば二人が酒場で話しているのを聞きました! 確か二人で向かいあって座っていました。そこでカルラさんが、
『ねえ聞いた? あのベルゼーヴァが帽子を欲しがってるんだって。笑っちゃうでしょ』
そういったら、アンギルダンさんは笑って、
『お主、それは今流行のえいぷりる・ふーるという奴じゃろう? ひっかからんぞ』
ってお酒を飲みながら笑って言い返して。カルラさんは舌を出して
『なーんだ。バレちゃった?』って言ってるのを聞きました!!」
そうか、お前は、聞いていたのか……。
ならばどうして、と聞いてはいけないのだ。
これまでの記憶がなく、容量が空っぽだからなのか、アンジェラは異様に記憶力が良かった。白紙の紙にペンを走らせるように、見聞きしたものをそのままの形で記憶している。問題は『見聞きしただけで、その意味は考えない』というところなのだが、それは高望みというものだ。
もう今の宰相には、それがよく分かっている。それくらいには、この娘の相手をしてきて、なれてきている。
そもそもアンジェラがベルゼーヴァの元を訪れるのは、大抵「ベルゼーヴァ様、この意味を教えてください」と自分の見聞きしたものの真意や内容を問うために来るのだから。
ベルゼーヴァは何気なく、先ほどサインをしたばかりの書類を見た。
書類の日付は、昨日夜あがってきたもので、日付は昨日のもの『4月1日』となっている。
異世界の風習で、『嘘をついても良い日』なるものがある、ということは話に聞いていた。ベルゼーヴァ自身はそんな風習のことなど聞き流していたが、規律に厳しいディンガル兵士たちは、些細な息抜きとして心引かれるものがあるようで、『どんな嘘をつこうか』と密かに練っているらしい……との報告が、最近の兵士たちの近況としてあったような気がする。
そんな下らない風習など、人類の革新には、何の役にも立たない。そう一蹴して切り捨てていたのが、仇となったようだ。
そんなベルゼーヴァの横で、アンジェラはさらに聞いた会話を思いだしながら、続きを話した。
「でもここで、カルラさんが首をひねりました。
『さすがアンギルダンだよね。ま、うちの兵士たちもこんな簡単な嘘には引っかからないんだけどさ。
でも、ほら、あたしの副官のアイリーン、あの子ってばマジメな子だから……なんか、信じちゃったみたいなんだよねー。「そういうことなら、私の故郷ロストールに良い帽子屋があったような気がします」なんて言って、でね。その後、姿が見えないの』
『そういえばザギヴが、こっそり古巣の魔道アカデミーに向かうのを見かけたぞ。まさかあ奴もお主の言葉を真に受けて、帽子を探しにいったのではあるまいな』
『ザギヴがあ? うーん、こんな簡単な嘘に引っかかっちゃうかなぁ。ああでも嘘の対象がトンガリとなると、ちょっと悩んじゃうかもね。一応あたしたちの上司様だし』
『ふむ。とすれば儂は一つ、ジラークの奴を担いでみるとするかな。コーンス族なら何かそういう頭部を隠すものに詳しくないかとな。いや、こういう言い方は良くないな。奴は烈火のごとく怒るか。トンガリを気にしている者に対して、何かよい解決方法を知らないか、とでも持ちかけてみるか』
そう言ってアンギルダンさんは席を立ったそうです」
軽はずみな事を……!
元凶はやはり足下だったか。カルラとアンギルダンの愚かな悪ふざけを叱責したい一方で、軍事国家たるディンガルがこんなに簡単に嘘を信じて良いものか、という冷静な状況分析がベルゼーヴァの頭に芽生えた。偽の情報に踊らされては、いつか大きな戦で、大敗をすることとなりかねない。
外見上は、顔の表情、特徴ある髪型の一本まで乱れは見せなかったが、内側では頭痛をこらえているベルゼーヴァの前で、不思議そうにアンジェラは首をかしげて、天使のような無垢な瞳で尋ねた。
「ところでベルゼーヴァ様。えいぷりる・ふーるって、何ですか?」
「ああ。君がそう尋ねるだろうことは、よく私には分かっている。だが君は、そんなことは知らなくてもいい」
……たぶん多大な迷惑が増えるだけだ。
「そうなんですか? ところで、帽子は、どの帽子がいいですか?」
さりげないアンジェラの追撃に、、ぴくり、とベルゼーヴァの顔が引きつった。
「どの帽子、とは?」
「みんなに相談したら、みんなそれぞれ素敵な帽子を用意してくださって。
とても一つに選べなかったので、全部持ってきたんです。あ、でも中には危険な物もあるので、通信機で連絡をしたら、オルファウスさんが特別に転送機経由でこの部屋に転送してくれることになっているんです」
アンジェラが悪びれもせずに告げる。今の会話の流れの中に、帽子の形容としては本来つくはずのない不思議な言葉が飛び込んできて、ベルゼーヴァは耳を疑った。
……人類の革新という崇高な目的の前に、私はこんなところで何をやっているんだろう。
それともこれが人類の革新の一歩なのだろうか。
思わずベルゼーヴァは、アンジェラの顔を見つめてしまった。
☆
ここからは選択式です。お好きなプレゼントをお選びください。
1.ロストール酒場でフェルムとルルアンタが選んだ専門家のための帽子
2.ロストール王女が宰相閣下の個性に苦心して選ばれた帽子
3.森の賢者が一肌脱いで宰相閣下のために手作りした魔法の帽子